悪い事を聞いてしまったかという気まずさで、美鶴は何も返すことができない。智論はゆっくりと水を一口。
「本当は、彼の方が捻くれるものなのにね。普通はそうだと思うんだけれど」
ガラスコップを置き、濡れた人差し指と親指を擦る。
「こちらはずいぶんと物分りの良い人間のようだわ。自分の出生を知ってもケロリとしてるんだから。前にも話したかしらね」
聞いたような気がする。そんな兄の態度に、逆に慎二の方が愕然とし、ショックを受けた。
「普段は関東で暮らしているわ。仕事でこちらに来たみたい」
「あの、じゃあ、何か予定があったんじゃ」
「別に無いわ。二人で富丘の家へ向かう途中だったんだけど、富丘で誰かが待っているというワケでもなかったし」
コーヒーが運ばれてくる。美鶴にはミルクティー。
「久しぶりのコーヒーって、どうしてこうも美味しいのかしらね。それとも、このお店のマスターのおかげかしら」
「よく来るお店なんですか?」
「いいえ、初めてよ。塁嗣は知っているみたいだったけれど」
そういえば、ここに来る途中の車内で、適当な店はないかと聞いていた。良い店があると言って連れてきてくれたのは彼だった。
智論はカップに口をつけ、上品に一口を飲んでからゆっくりと手を下ろした。そうして、同じようにゆっくりと口を開く。
「慎二を、口説いているようね」
「え? あ」
予期していた言葉とはいえ、こうもストレートに尋ねられると、答えに詰まる。
「あの、えっと、別に私は口説くだなんて」
「ふふっ ごめんなさい。言葉が下品だったわね」
狼狽する相手に智論は瞳を細めた。
「別にあなたを好色風情に言うつもりはなかったのよ」
そこで少し悪戯っぽく瞳を動かす。
「でも、ずいぶんと熱っぽく声を掛けているようね」
「え?」
「繁華街へ出て行っているようだって聞いたわ」
「誰から?」
「木崎さん」
知っていて当然だよな。
木崎は霞流慎二の周囲を良く知る人物だ。知っていて当然。
「私の忠告は、あまり役には立たなかったという事かしら」
少し虚ろに視線を落とす。
「やっぱりあなた、慎二の事が好きだったのね」
「怒ってます?」
美鶴の言葉に、智論は驚いたように顔をあげた。
「怒る? 私が?」
「はい」
「どうして?」
「え? だって」
だって、彼女は私を心配して忠告してくれた。霞流慎二には深入りするなと言ってくれた。すれば傷つくのは自分だと。
智論の真意がどうなのかはわからないが、美鶴は、それを無視した。結局は霞流慎二に傾倒し、そうして言われた通り、返り討ちにあっている。
それに。
薄く膜の張ったミルクティーを凝視する。
智論さんは、霞流さんの許婚だし。
質問に答えない美鶴へ、智論は返事を促す。
「どうして私が怒るの?」
「だって、智論さんは事前にちゃんと忠告してくれたし、それに、智論さんは、霞流さんの、許婚、だし」
消え入りそうな語尾に智論は一瞬絶句し、次の瞬間にはクスクスと声を漏らした。
「だから、許婚は言葉だけだって、前にも言ったじゃない」
「でも、だからって」
「そんな事を気にしていたの?」
唇に指を当てて笑い声をあげる相手に、美鶴はなぜだか頬が紅潮するのを感じた。
気にするだろう、普通は。だって許婚だぞ。好きな人に許婚がいたら誰だって。
「そんな事を気にしているようだったら、慎二には太刀打ちできないわね」
ようやく笑いのおさまった智論は、まだ少し笑みを残した頬で口を開いた。
美鶴は、胸を突かれたような気がした。
「その様子だと、あながち間違ってはいないようだわね」
「えっと」
「慎二に、何をされたの?」
「あの」
「売春でも強要された?」
「え、あ、あの」
売春などといった言葉を事も無げに口にする智論の態度にも驚いた。そのような言葉を口にするような人には見えない。しかも、こんな昼間に、こんなお洒落なお店でコーヒーを飲みながらだなんて。
「あの」
どう反応すればいいのかわからず混乱する相手に、智論は肩を竦めた。
「正解ってところかしら。相変わらずね、慎二は」
「あの、相変わらずって」
じゃあ、今までの人にも、やっぱりあんなふうに悪戯したり、売春を迫ったりしたという事なのだろうか。
「あの、霞流さんって、あんなふうに、その、ば、売春とかって、させようとしたりしたんですか?」
「そういう時もあったみたいだわ」
「で、それで、相手の人は?」
智論は一瞬躊躇った。
「一人、話に乗った人がいたわ」
言う事を聞けば慎二は自分のモノになると、信じて疑わない女性だった。直前で智論が気付いて強引に止めなければ、女性は本当に身を売っていただろう。
愚かだと、慎二は笑った。嗤いながら捨てた。
「でも、それって、犯罪ですよね」
「そうよ」
「そんな事を、霞流さんが」
言葉に詰まる。
残念な事に、今なら信じる事ができてしまう。霞流慎二なら、やりかねないと。
「慎二の本性、少しは理解できた? 私の忠告の重大さも、少しはわかってもらえたかしら?」
答えられない美鶴に、智論はゆっくりと畳み掛ける。
「あなたも、手酷くやられているみたいね」
「え?」
「あなたが慎二の事を想っているって、校内にバラされたでしょう?」
「あの、さっきもそんなような事を言ってましたけど、その情報はどこから?」
木崎が知っているとは思えない。それに、智論の出現の早さにも疑問が沸く。
噂が広まったのは今日だ。前から広まっていたとしても、それほど昔の事ではないはず。なぜなら、美鶴の恋心などが広まれば、同級生たちは我先にと美鶴を突きに来るはずだからだ。噂が広まっていながら美鶴が長い事知らなかったとは考えられない。
今日か昨日か、そのあたりで広まったであろう噂を、なぜ智論がこうも早い段階で知っているのだろうか?
「誰から聞いたんです?」
「慎二からよ」
「え?」
目の前で、金糸が揺れる。
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